15年ぶりのハングル
ふと、本屋に立ち寄って、NHKラジオ講座の『まいにちハングル講座』のテキストを手に取った。
5月だけど、4月号を買って、音声をダウンロードしてみた。
・・・私がハングルを学んだのは、中3の時だったと思う。
当時、言語学と中国文学にハマっていた私は(今もあまり変わらないけれど)、漢語がどのように他の言語に取り入れられていったのかに興味を持ち、中国語と韓国語とベトナム語と万葉仮名を平行して学ぼうと無謀なことを考えた。
ベトナム語は本屋で立ち読み3時間で挫折したが、ハングルは一応、文字をマスターするところまでいった。まあつまり、音読はできるけど意味分かりません、というレベルね(笑)
結局、中国語のレベルアップと大学受験のため、ハングルはそのまま中断してしまった。
そしてそのまま西洋史学(中国と西洋の関係みたいなの)に進んでしまったおかげで、ヨーロッパ寄りになってしまった。そういや最近韓国に行ってないな。
ふと京都駅でハングルの表示をみた。
母音しかわからん・・・!
パッチムとかも怪しい。話せないのは勿論だけど、文字まで忘れてるんだなあ・・・。
何かショックだった。
それから、あの頃のことを考えた。
何を考えてたっけ?
何を目指してたっけ?
今の自分は、あの頃の自分から見て納得のいく存在になっているだろうか。
そんなことを考えながら、ノートに少しずつハングルを書いてみた。
何とも言えない懐かしさ。
初心に返ると、
吏読(りとう、이두 朝鮮語の語順で書かれた漢文)
を目指すべきなんだろうけど(大学の先生で吏読マスターがいたなあ。。。)、あの頃とは違う世界にも触れた。
韓国人や在日の友達がたくさんできたし、韓国ミュージカルに興味津々だし、太王四神記にもハマった(←何故かピンポイントで・笑)。
学ぶ理由はいくつあってもいい。
言葉は人と人、文化と文化をつなぐものだから。
・・・でもやっぱり吏読が最終目標かなあ。
あと、字喃(チュノム 今は使われていないベトナムの文字)もな(笑)
何か、古典的なものが好きなのです。

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5月だけど、4月号を買って、音声をダウンロードしてみた。
・・・私がハングルを学んだのは、中3の時だったと思う。
当時、言語学と中国文学にハマっていた私は(今もあまり変わらないけれど)、漢語がどのように他の言語に取り入れられていったのかに興味を持ち、中国語と韓国語とベトナム語と万葉仮名を平行して学ぼうと無謀なことを考えた。
ベトナム語は本屋で立ち読み3時間で挫折したが、ハングルは一応、文字をマスターするところまでいった。まあつまり、音読はできるけど意味分かりません、というレベルね(笑)
結局、中国語のレベルアップと大学受験のため、ハングルはそのまま中断してしまった。
そしてそのまま西洋史学(中国と西洋の関係みたいなの)に進んでしまったおかげで、ヨーロッパ寄りになってしまった。そういや最近韓国に行ってないな。
ふと京都駅でハングルの表示をみた。
母音しかわからん・・・!
パッチムとかも怪しい。話せないのは勿論だけど、文字まで忘れてるんだなあ・・・。
何かショックだった。
それから、あの頃のことを考えた。
何を考えてたっけ?
何を目指してたっけ?
今の自分は、あの頃の自分から見て納得のいく存在になっているだろうか。
そんなことを考えながら、ノートに少しずつハングルを書いてみた。
何とも言えない懐かしさ。
初心に返ると、
吏読(りとう、이두 朝鮮語の語順で書かれた漢文)
を目指すべきなんだろうけど(大学の先生で吏読マスターがいたなあ。。。)、あの頃とは違う世界にも触れた。
韓国人や在日の友達がたくさんできたし、韓国ミュージカルに興味津々だし、太王四神記にもハマった(←何故かピンポイントで・笑)。
学ぶ理由はいくつあってもいい。
言葉は人と人、文化と文化をつなぐものだから。
・・・でもやっぱり吏読が最終目標かなあ。
あと、字喃(チュノム 今は使われていないベトナムの文字)もな(笑)
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- [2012/05/05 14:09]
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[ケセン語訳聖書]『ガリラヤのイェシュー』
お久しぶりです。洗礼を受けました。プロテスタントです。
さて、教会で話題になっていた本を紹介。
聖書の日本語訳はたくさん出ていて、まあ・・・「新共同訳」というのが割と広く使われているが、他にもたくさんある。
この訳はちょっと変わったもので、訳者の山浦玄嗣氏は本業は医師だが、方言研究をしているカトリック教徒でもある。
↓こんな感じ。ケセン語とは気仙沼とかそのあたりで使われている言葉らしい。
『ガリラヤのイェシュー』は、新約聖書の中でもイエスの活動を記した四つの福音書部分をケセン語訳したものである。しかし、全部がケセン語ではない。p.11に「方言使用と登場人物」があるので、一部紹介してみよう。
ケセン語:ガリラヤ人たちの大部分、イェシューと弟子たち
仙台弁:カファルナウム近辺の人々
盛岡弁:ガリラヤ北方、フィリッポ・カイサリアの人々
津軽弁:デカポリス地方の異邦人
鶴岡弁:サマリア人、シカルの村人たち
・・・すいません、私にはこれらの違いがわかりません(笑)
関東やくざ言葉:イェシューとともに殺された死刑囚
名古屋弁:イェリコの人々、盲目の乞食、貢ぎ取りのザッカイ
京都弁:イェルサエレムと近郊ベタニア村の人々、祭司たち
大阪弁:「狡い番頭」のたとえ話に出てくる商人たち
山口弁:ユダヤ地方の人々、ベツレヘムの羊飼い、アリマタヤのヨセフ、エマオへ行く弟子たち、イスカリオテのユダ
ちょ・・・京都・大阪はあらかた悪者ではないか(笑)
そして、ケセン語軍団の中で一人山口弁なユダ(笑)
そして、外国の方々が・・・。
長崎弁:ギリシア人、ギリシア語を話すカナン女
鹿児島弁:ローマ人、ピラト、ローマの兵卒
東北の方からすると九州は外国か(笑)
四国や北陸スルーなのが残念だな。
(多分訳者の人脈の関係と思われる)
地の文や、公的な発言・説教などは幕末期の日本語風になっている。
では、ちょっと紹介。マタイによる福音書26章34〜35節。最後の晩餐の時のイエスとペテロの会話。
イェシューさまはペトロに言いなさった。「其方(そなだ)にこの俺は(おれァ)シッカど語って(かだって)おぐ。今夜鶏っこが時(とぎィ)つぐる前(めァ)其方は三回(みゲァり)、この俺の(おれァ)事を(ゴどォ)知らねァって語る(かだる)」ペトロは吠えた。「たどえお前(おめァ)さまど一緒に殺される破目になったどしたって、お前様を(おめァさまァどゴォ)知らねァなどど、選りにも選って、この俺が何故何故(なさなさ)言うもんだづァんせ」
誰か−!音読して下さい!(笑)
うぬぬ、父が栃木だけど、やっぱ気仙は遠い。。。
個人的に、イエスの一人称が「俺」というのが意外に合ってていいな、と思った。普通の訳の聖書だと「私」で、ちょっとすました感じの言葉を使っているけど、大工の子で周りも大工や漁師なんだから、くだけた感じの方が近いんだろうな。任侠の親分みたいな感じだったんじゃないのかな。
イェシューさまも、神様にはちょっと改まった言葉を使う。
「父さま(ととさま)、俺が飲まない限りこの杯は取り除けられないのですね。それなら、ようござります、どうぞ父さまのよいと思う通りになりますように!」
(マタイ26:42)
で、この後裏切り者の長州人が登場。
「儂が顔を寄せて挨拶するほが目指すその人ぢゃけえ、それェ捕らえてくださいや」ユダは真っ直ぐイェシューさまのところに近寄って、言った。「師匠、お喜びくださいや」
それに対しイェシューは
「友よ(ともォ)、此処へ(こゴさ)来たその訳を(わゲェ)仕上げでしめァ」
ともォ・・・!音読できないけど、なんかぐっとくるぞ・・・。
ちなみに新共同訳では「友よ、しようとしていることをするがよい」だ。
何というか・・・血の通った「人間」って感じだな。
この後、いけずな関西人の尋問に遭う。
「おのれ、恐れ多くも神さんを嘲って、聞くのも恐ろしいことを抜かしたな!この上にはまだ証人が要るやろか?御覧あれ、卿らはたった今、神穢しの言葉をお聞きやしたなあ。どう思われる?」
うん、普通に時代劇の関西弁って感じかな。
薩摩からおこしのピラト卿。
「汝を(わゆ)ば陥れち、あげんあいこい言い立てちょっどん、汝は(わや)、きこえんとか?」
・・・西郷さんかよ(笑)
めっちゃ笑ったのが、マタイ27:65
「汝等(わいたち)にゃ、見張り組があっぢゃろが!行け!汝等で手をば尽くし、シッカと見張りやんせ、チェストーッ!」
ちょ・・・ピラトさんご乱心!?ちなみに新共同訳は「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
何かいろいろ面白いけど、チェストーッ!が一番強烈やった(笑)。
まだ、マタイしか読んでないけど、他も面白いのがあるんだろうな。
方言学としても、聖書の新しい読み方としても面白い本。
↓こういうのもあるみたい。抜粋なのかな?
大阪弁のもあるみたい。
面白いな〜。
ちなみに私、家では口語訳(1956年版)、教会・職場では新共同訳を使ってます。

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さて、教会で話題になっていた本を紹介。
![]() | ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書 (2011/11) 山浦 玄嗣 商品詳細を見る |
聖書の日本語訳はたくさん出ていて、まあ・・・「新共同訳」というのが割と広く使われているが、他にもたくさんある。
この訳はちょっと変わったもので、訳者の山浦玄嗣氏は本業は医師だが、方言研究をしているカトリック教徒でもある。
↓こんな感じ。ケセン語とは気仙沼とかそのあたりで使われている言葉らしい。
![]() | ケセン語の世界 (2007/01/19) 山浦 玄嗣 商品詳細を見る |
『ガリラヤのイェシュー』は、新約聖書の中でもイエスの活動を記した四つの福音書部分をケセン語訳したものである。しかし、全部がケセン語ではない。p.11に「方言使用と登場人物」があるので、一部紹介してみよう。
ケセン語:ガリラヤ人たちの大部分、イェシューと弟子たち
仙台弁:カファルナウム近辺の人々
盛岡弁:ガリラヤ北方、フィリッポ・カイサリアの人々
津軽弁:デカポリス地方の異邦人
鶴岡弁:サマリア人、シカルの村人たち
・・・すいません、私にはこれらの違いがわかりません(笑)
関東やくざ言葉:イェシューとともに殺された死刑囚
名古屋弁:イェリコの人々、盲目の乞食、貢ぎ取りのザッカイ
京都弁:イェルサエレムと近郊ベタニア村の人々、祭司たち
大阪弁:「狡い番頭」のたとえ話に出てくる商人たち
山口弁:ユダヤ地方の人々、ベツレヘムの羊飼い、アリマタヤのヨセフ、エマオへ行く弟子たち、イスカリオテのユダ
ちょ・・・京都・大阪はあらかた悪者ではないか(笑)
そして、ケセン語軍団の中で一人山口弁なユダ(笑)
そして、外国の方々が・・・。
長崎弁:ギリシア人、ギリシア語を話すカナン女
鹿児島弁:ローマ人、ピラト、ローマの兵卒
東北の方からすると九州は外国か(笑)
四国や北陸スルーなのが残念だな。
(多分訳者の人脈の関係と思われる)
地の文や、公的な発言・説教などは幕末期の日本語風になっている。
では、ちょっと紹介。マタイによる福音書26章34〜35節。最後の晩餐の時のイエスとペテロの会話。
イェシューさまはペトロに言いなさった。「其方(そなだ)にこの俺は(おれァ)シッカど語って(かだって)おぐ。今夜鶏っこが時(とぎィ)つぐる前(めァ)其方は三回(みゲァり)、この俺の(おれァ)事を(ゴどォ)知らねァって語る(かだる)」ペトロは吠えた。「たどえお前(おめァ)さまど一緒に殺される破目になったどしたって、お前様を(おめァさまァどゴォ)知らねァなどど、選りにも選って、この俺が何故何故(なさなさ)言うもんだづァんせ」
誰か−!音読して下さい!(笑)
うぬぬ、父が栃木だけど、やっぱ気仙は遠い。。。
個人的に、イエスの一人称が「俺」というのが意外に合ってていいな、と思った。普通の訳の聖書だと「私」で、ちょっとすました感じの言葉を使っているけど、大工の子で周りも大工や漁師なんだから、くだけた感じの方が近いんだろうな。任侠の親分みたいな感じだったんじゃないのかな。
イェシューさまも、神様にはちょっと改まった言葉を使う。
「父さま(ととさま)、俺が飲まない限りこの杯は取り除けられないのですね。それなら、ようござります、どうぞ父さまのよいと思う通りになりますように!」
(マタイ26:42)
で、この後裏切り者の長州人が登場。
「儂が顔を寄せて挨拶するほが目指すその人ぢゃけえ、それェ捕らえてくださいや」ユダは真っ直ぐイェシューさまのところに近寄って、言った。「師匠、お喜びくださいや」
それに対しイェシューは
「友よ(ともォ)、此処へ(こゴさ)来たその訳を(わゲェ)仕上げでしめァ」
ともォ・・・!音読できないけど、なんかぐっとくるぞ・・・。
ちなみに新共同訳では「友よ、しようとしていることをするがよい」だ。
何というか・・・血の通った「人間」って感じだな。
この後、いけずな関西人の尋問に遭う。
「おのれ、恐れ多くも神さんを嘲って、聞くのも恐ろしいことを抜かしたな!この上にはまだ証人が要るやろか?御覧あれ、卿らはたった今、神穢しの言葉をお聞きやしたなあ。どう思われる?」
うん、普通に時代劇の関西弁って感じかな。
薩摩からおこしのピラト卿。
「汝を(わゆ)ば陥れち、あげんあいこい言い立てちょっどん、汝は(わや)、きこえんとか?」
・・・西郷さんかよ(笑)
めっちゃ笑ったのが、マタイ27:65
「汝等(わいたち)にゃ、見張り組があっぢゃろが!行け!汝等で手をば尽くし、シッカと見張りやんせ、チェストーッ!」
ちょ・・・ピラトさんご乱心!?ちなみに新共同訳は「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
何かいろいろ面白いけど、チェストーッ!が一番強烈やった(笑)。
まだ、マタイしか読んでないけど、他も面白いのがあるんだろうな。
方言学としても、聖書の新しい読み方としても面白い本。
↓こういうのもあるみたい。抜粋なのかな?
![]() | イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書) (2011/12/15) 山浦 玄嗣 商品詳細を見る |
大阪弁のもあるみたい。
![]() | コテコテ大阪弁訳「聖書」愛蔵版 (2004/02) 不明 商品詳細を見る |
面白いな〜。
ちなみに私、家では口語訳(1956年版)、教会・職場では新共同訳を使ってます。

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- [2012/04/02 21:09]
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大晦日はダンス・オブ・ヴァンパイア!!!
4年前と同じく、大晦日はマジャール劇場でダンス・オブ・ヴァンパイアを見た。
その後見た帝劇での感想はその一、その二ですのでよろしければどうぞ。
さて、お目当ては主役クロロック伯爵役のEgyházi Gézaさん。前回2回見てハマってしまったのです。
今回もちゃんと出てくれていてよかった。今40過ぎたくらいだけど、渋くていい感じなのだ。
でも、昔はかなり苦手で・・・どう苦手だったかというと・・・「この人と結婚するくらいなら死んだ方がマシ」キャラとして認識してたんですね、ひどいなあ(笑)詳しくは5年近く前のR&Jの感想をどうぞ(笑)
今回の席はセンターでとても見やすかったけど、真横をヴァンパイアが通ったりするという楽しみはなかった(笑)
あーーーゲーザさんのとこの舞踏会に行きたくなるね、あのお誘いの歌を聴いていると。でも、未だに伯爵のサラに対する思いというのがよくわからないんだよな・・・。恋愛感情というでもなく、単に血を吸いたいのでもなく、仲間を増やしたいというだけでもなく、でもその全部でもあり、すべてが抑えがたい衝動、その衝動に突き動かされる吸血鬼という存在であることに苦しむ。よく分からないなりに何か悲しい。
悲しいんだけど、やっぱり楽しい。ゴシック・ホラー・コメディだけある。普通の勧善懲悪物なら、吸血鬼を倒してヒロインを救い出してめでたしめでたし、なのに、何とヒロインのサラが吸血鬼になって、助けに来たアルフレートの血を吸って仲間に引き入れてしまうんだから!そして最後の明るいダンス!いいね!吸血鬼の世界ってみたいな(笑)でも、最後のシーンには伯爵いないんだけど、どういうことなんだろう?伯爵は悩んでいたから???
あと!今回のキャストでは伯爵の息子ヘルベルト役の人がめっちゃかっこよかった!Jenei Gáborという、すらっとした人。4年前の方と違って胴が長いのではなく、脚が長いタイプの長身(笑)ダンスも素敵。
大晦日のヴァンパイアで楽しいのが、終演後のシャンパン。
ロビーで無料でシャンパンが振る舞われるのだが、ここにキャストたちも現れ、おしゃべりしたり写真を撮ったりすることができる。私もゲーザさんに「4年前も見ましたよ〜」とかハンガリー語で言ってみたら結構驚いてくれた。
でも、何より驚いて嬉しかったのは、4年前にもここで出会い、朝まで語り合った日本人の女性と再会できたこと。さらには、このブログを読んでいるという方ともお会いできた。何かこういうのうれしいなあ・・・。これからもよろしくお願いします!

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その後見た帝劇での感想はその一、その二ですのでよろしければどうぞ。
さて、お目当ては主役クロロック伯爵役のEgyházi Gézaさん。前回2回見てハマってしまったのです。
今回もちゃんと出てくれていてよかった。今40過ぎたくらいだけど、渋くていい感じなのだ。
でも、昔はかなり苦手で・・・どう苦手だったかというと・・・「この人と結婚するくらいなら死んだ方がマシ」キャラとして認識してたんですね、ひどいなあ(笑)詳しくは5年近く前のR&Jの感想をどうぞ(笑)
今回の席はセンターでとても見やすかったけど、真横をヴァンパイアが通ったりするという楽しみはなかった(笑)
あーーーゲーザさんのとこの舞踏会に行きたくなるね、あのお誘いの歌を聴いていると。でも、未だに伯爵のサラに対する思いというのがよくわからないんだよな・・・。恋愛感情というでもなく、単に血を吸いたいのでもなく、仲間を増やしたいというだけでもなく、でもその全部でもあり、すべてが抑えがたい衝動、その衝動に突き動かされる吸血鬼という存在であることに苦しむ。よく分からないなりに何か悲しい。
悲しいんだけど、やっぱり楽しい。ゴシック・ホラー・コメディだけある。普通の勧善懲悪物なら、吸血鬼を倒してヒロインを救い出してめでたしめでたし、なのに、何とヒロインのサラが吸血鬼になって、助けに来たアルフレートの血を吸って仲間に引き入れてしまうんだから!そして最後の明るいダンス!いいね!吸血鬼の世界ってみたいな(笑)でも、最後のシーンには伯爵いないんだけど、どういうことなんだろう?伯爵は悩んでいたから???
あと!今回のキャストでは伯爵の息子ヘルベルト役の人がめっちゃかっこよかった!Jenei Gáborという、すらっとした人。4年前の方と違って胴が長いのではなく、脚が長いタイプの長身(笑)ダンスも素敵。
大晦日のヴァンパイアで楽しいのが、終演後のシャンパン。
ロビーで無料でシャンパンが振る舞われるのだが、ここにキャストたちも現れ、おしゃべりしたり写真を撮ったりすることができる。私もゲーザさんに「4年前も見ましたよ〜」とかハンガリー語で言ってみたら結構驚いてくれた。
でも、何より驚いて嬉しかったのは、4年前にもここで出会い、朝まで語り合った日本人の女性と再会できたこと。さらには、このブログを読んでいるという方ともお会いできた。何かこういうのうれしいなあ・・・。これからもよろしくお願いします!

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- [2012/01/09 23:13]
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ブダペスト版『ミス・サイゴン』1〜3回目
12月30・31日に3回見て来た。
キャストは30日の昼・夜が以下で、31日昼はだいたい30日夜と同じだけど、違うところは()にしておいた。
Professzor:Szabó P. Szilveszter/Mészáros Árpád Zsolt
Kim:Dancs Annamari/Vágó Zsuzsi
Chris:Dolhai Attila/Kocsis Dénes
John:György-Rózsa Sándor
Ellen:Bordás Barbara(Vágó Bernadett)
Thuy:Kerényi Miklós Máté(Kiss Tivadar)
『蝶々夫人』をもとにしたミュージカル。舞台はベトナム戦争末期のサイゴン。詳しいスト^-リーはこちらでどうぞ。
いきなり爆撃音がして、心臓に悪い!火祭りなのはいつものことだが、今回は特に銃声が多かったな。。。
あと、群舞が素晴らしかった。ベトコンが勝利してベトナムが社会主義化する場面とか。社会主義時代を経験したハンガリーだから、思い切り皮肉を込めているように感じた。
それにしても・・・キャスト、この順なの?キムとクリスが主役ではないの?
「プロフェッサー」って英語版だと「エンジニア」と呼ばれている人。
お父さんがフランス人、お母さんがベトナム人の娼婦で、売春宿を経営している人なんだが。
この役、最初Szilveszterさんで見たのだが・・・再び
超絶美形の不審者
だと思った。前もルドルフの時に思ったんだな、人形遣い、めっちゃ不審だった。何でこんなに不審なんだろう(笑)多分、この人、売春宿の経営して人に頭下げたりするには美しすぎるし高貴すぎるんだよな、顔立ちが。貴族とか偉そうな役の方が自然。でも、この不審さ・不自然さにも何とも言えない役者魂を感じてハマるっちゃあハマる(笑)
プロフェッサーはやはり、アールピの方が自然でしっくり来たな。何の違和感もなかった。よいよい。
クリスは最初にDolhaiで見てしまった。久々に見るDolhaiはちょい老けたが、やっぱり圧倒的な存在感と歌唱力がある。おかげで、後に見たKocsis Dénesがなんかいまいちに感じた。でも、翌日、Dolhaiの呪縛から解放されて見て見るとKocsis Dénes、なかなか良いではないか。期待の若手かな。(←初見)
キム役のDancs Annamariも初見だけど、かなり好感を持てた。アオザイがとても似合う、かわいらしい女性。Vágó Zsuzsiよりもキムのイメージに合っていたな。
で、何より感動したのが、クリスの親友のジョン。ポジション的にもおいしいんだけど、演じている彼がね。György-Rózsa Sándor。一部の日本人の間で「ギョーザ」と呼ばれている彼なのだが、素晴らしかった!うー、名前書くの面倒だしギョーザでいいかな(笑)。
今までギョーザと言えば、顔は濃いけど存在感は薄いという印象だった。だから、ロミオとかやるとなんか物足りなく感じたんだよね。でも、脇役に回ると素晴らしくて、例えば『エリザベート』のアンドラ―シ首相。日本版だと何故か「革命家のジュラ」という役になっているけど、とりあえずそのアンドラーシがすごくよかった。どういう風によかったかはエリザベートセゲド公演の感想をどうぞ。本当、名脇役。
今回も脇ポジションではあるんだけど、アンドラーシに比べるとかなり大きな存在。キムとクリスを引き合わせたのも彼だし、キムに子供がいることを知って何とかクリスに会わせようとするのも彼。2幕最初にはソロ曲もある。
確かに彼は強烈な存在感はない。でも、二人のために誠実に奔走する姿には心打たれた。むしろ、強烈な存在感がないことが必要な役だと思う。結局3回ともジョンはギョーザだったのだが、彼以上のジョンというのは想像しにくい。本当、見て良かった。
30日は2回出待ちして、何故か2回ギョーザと喋った(笑)。今まで興味なかったので話しかけるのは初めて。でも何故かFacebookで「友人」なので、普通に顔認識してくれた。うん、やっぱり顔濃いなあ!
で、31日夜はマジャール劇場のダンス・オブ・ヴァンパイアへ。

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キャストは30日の昼・夜が以下で、31日昼はだいたい30日夜と同じだけど、違うところは()にしておいた。
Professzor:Szabó P. Szilveszter/Mészáros Árpád Zsolt
Kim:Dancs Annamari/Vágó Zsuzsi
Chris:Dolhai Attila/Kocsis Dénes
John:György-Rózsa Sándor
Ellen:Bordás Barbara(Vágó Bernadett)
Thuy:Kerényi Miklós Máté(Kiss Tivadar)
『蝶々夫人』をもとにしたミュージカル。舞台はベトナム戦争末期のサイゴン。詳しいスト^-リーはこちらでどうぞ。
いきなり爆撃音がして、心臓に悪い!火祭りなのはいつものことだが、今回は特に銃声が多かったな。。。
あと、群舞が素晴らしかった。ベトコンが勝利してベトナムが社会主義化する場面とか。社会主義時代を経験したハンガリーだから、思い切り皮肉を込めているように感じた。
それにしても・・・キャスト、この順なの?キムとクリスが主役ではないの?
「プロフェッサー」って英語版だと「エンジニア」と呼ばれている人。
お父さんがフランス人、お母さんがベトナム人の娼婦で、売春宿を経営している人なんだが。
この役、最初Szilveszterさんで見たのだが・・・再び
超絶美形の不審者
だと思った。前もルドルフの時に思ったんだな、人形遣い、めっちゃ不審だった。何でこんなに不審なんだろう(笑)多分、この人、売春宿の経営して人に頭下げたりするには美しすぎるし高貴すぎるんだよな、顔立ちが。貴族とか偉そうな役の方が自然。でも、この不審さ・不自然さにも何とも言えない役者魂を感じてハマるっちゃあハマる(笑)
プロフェッサーはやはり、アールピの方が自然でしっくり来たな。何の違和感もなかった。よいよい。
クリスは最初にDolhaiで見てしまった。久々に見るDolhaiはちょい老けたが、やっぱり圧倒的な存在感と歌唱力がある。おかげで、後に見たKocsis Dénesがなんかいまいちに感じた。でも、翌日、Dolhaiの呪縛から解放されて見て見るとKocsis Dénes、なかなか良いではないか。期待の若手かな。(←初見)
キム役のDancs Annamariも初見だけど、かなり好感を持てた。アオザイがとても似合う、かわいらしい女性。Vágó Zsuzsiよりもキムのイメージに合っていたな。
で、何より感動したのが、クリスの親友のジョン。ポジション的にもおいしいんだけど、演じている彼がね。György-Rózsa Sándor。一部の日本人の間で「ギョーザ」と呼ばれている彼なのだが、素晴らしかった!うー、名前書くの面倒だしギョーザでいいかな(笑)。
今までギョーザと言えば、顔は濃いけど存在感は薄いという印象だった。だから、ロミオとかやるとなんか物足りなく感じたんだよね。でも、脇役に回ると素晴らしくて、例えば『エリザベート』のアンドラ―シ首相。日本版だと何故か「革命家のジュラ」という役になっているけど、とりあえずそのアンドラーシがすごくよかった。どういう風によかったかはエリザベートセゲド公演の感想をどうぞ。本当、名脇役。
今回も脇ポジションではあるんだけど、アンドラーシに比べるとかなり大きな存在。キムとクリスを引き合わせたのも彼だし、キムに子供がいることを知って何とかクリスに会わせようとするのも彼。2幕最初にはソロ曲もある。
確かに彼は強烈な存在感はない。でも、二人のために誠実に奔走する姿には心打たれた。むしろ、強烈な存在感がないことが必要な役だと思う。結局3回ともジョンはギョーザだったのだが、彼以上のジョンというのは想像しにくい。本当、見て良かった。
30日は2回出待ちして、何故か2回ギョーザと喋った(笑)。今まで興味なかったので話しかけるのは初めて。でも何故かFacebookで「友人」なので、普通に顔認識してくれた。うん、やっぱり顔濃いなあ!
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- [2012/01/06 23:51]
- ハンガリーミュージカル |
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ブダペスト版『キャッツ』2回目
ハンガリーから帰ってきました!
早速観劇レポートを。
まずは、12月29日にマダーチ劇場で見た『キャッツ』(Macskák)。
2005年の観劇以来で、かなり久しぶり!
でも、あの頃は全く話とか分かってなかったけど、その後、四季版のCDを聞いたりしたので、前よりもわかるようになってきた。わかってなくてもすごく楽しかったんだけど!
そうか、これは「詩」なんだね、原作が。
「物語」と思ってストーリーを追うよりも、一匹一匹の猫のシーンを詩的に楽しめばいいんだ〜!
と思ったらますます楽しくなった。
ちらっとキャストを見た感じ、知っている人も猫もいない感じ。
そう、ハンガリー版は名前が違いすぎてわからんのです。
ま、舞台を楽しもう!
・・・と思ってたらつっぱり猫のラム・タム・タガー(Micsel Rumli)が・・・めっちゃいいんですけど!声がSerbán Attilaにそっくりでめっちゃ好みなんですけど!!!でも、Serbiではないはず。だって。Serbiはあんなにメタボ腹ではないはず!!!うぬぬでも・・・でも・・・メタボ腹やのにかっこいいし、上手い。そして声が・・・!?
何か前半は彼ばかり見てました。で、幕間。キャスト表を再び見に行った。
Micsel Rumli : Serbán Attila
うわああああああああああ
何かものすごく複雑な気分!!!
あの素晴らしい歌と演技がSerbiだったのかと思うと嬉しいが、いつの間にそんなに太ってしまったんだ、というショックとの両方で。。。
Serbiは2010年春に『ヨセフ・アンド・ザ・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』のヨセフをやってるのを見たなあ。あれ?観劇日記書いてなかった。。。旧約聖書のエジプトに売られたヨセフの話。ちょいこざかしい感じがよく似合ってた。でもゆったりした服だから気づかなかったわ。。。むしろ、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のユダの方が心配なような、体型的に(笑)
まあ、とりあえず深呼吸をして(笑)、2幕。
劇場猫ガスがよかった!何だかとても詩的だ。メロディーも構成も。海賊猫に変わるところとか見事。
CDだとSzínházi Macska(劇場猫)としか書いてないんだけど、キャスト表だとどれにあたるのだ???TUS???
キャッツって、Serbi以外知ってる人がいないからいろいろとわからん。。。結局、いろんなところでSerbiの観察をしてしまった。前回はキャスト全員分からなかったから全体を見てた感じだけど、一人だけわかるとかになるとついその人を観察してしまう。いいのか悪いのか。。。そういえば、長老猫はEgyházi Gézaさんのこともあるらしい。Gézaさんが猫化してたりしたら私、もう笑い死にしそうだわ。。。役者になれてくると楽しみ方が変わってくるなあ。
一度日本でも見てみたいなあ・・・。
マダーチ劇場の演出って独特だけど、オペレッタ劇場みたいな「ハンガリー臭さ」がないと思った。『オペラ座の怪人』なんかも、世界で唯一独自演出を許されているとのことだが、個性的だけど、民族的ではないのがよい。いや、私はオペレッタ劇場のハンガリー臭さや民族舞踊要素をふんだんに取り入れたのも大好きだけど、アンドリュー・ロイド・ウェーバーはやっぱりマダーチでよかったと思う。

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早速観劇レポートを。
まずは、12月29日にマダーチ劇場で見た『キャッツ』(Macskák)。
2005年の観劇以来で、かなり久しぶり!
でも、あの頃は全く話とか分かってなかったけど、その後、四季版のCDを聞いたりしたので、前よりもわかるようになってきた。わかってなくてもすごく楽しかったんだけど!
そうか、これは「詩」なんだね、原作が。
「物語」と思ってストーリーを追うよりも、一匹一匹の猫のシーンを詩的に楽しめばいいんだ〜!
と思ったらますます楽しくなった。
ちらっとキャストを見た感じ、知っている人も猫もいない感じ。
そう、ハンガリー版は名前が違いすぎてわからんのです。
ま、舞台を楽しもう!
・・・と思ってたらつっぱり猫のラム・タム・タガー(Micsel Rumli)が・・・めっちゃいいんですけど!声がSerbán Attilaにそっくりでめっちゃ好みなんですけど!!!でも、Serbiではないはず。だって。Serbiはあんなにメタボ腹ではないはず!!!うぬぬでも・・・でも・・・メタボ腹やのにかっこいいし、上手い。そして声が・・・!?
何か前半は彼ばかり見てました。で、幕間。キャスト表を再び見に行った。
Micsel Rumli : Serbán Attila
うわああああああああああ
何かものすごく複雑な気分!!!
あの素晴らしい歌と演技がSerbiだったのかと思うと嬉しいが、いつの間にそんなに太ってしまったんだ、というショックとの両方で。。。
Serbiは2010年春に『ヨセフ・アンド・ザ・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』のヨセフをやってるのを見たなあ。あれ?観劇日記書いてなかった。。。旧約聖書のエジプトに売られたヨセフの話。ちょいこざかしい感じがよく似合ってた。でもゆったりした服だから気づかなかったわ。。。むしろ、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のユダの方が心配なような、体型的に(笑)
まあ、とりあえず深呼吸をして(笑)、2幕。
劇場猫ガスがよかった!何だかとても詩的だ。メロディーも構成も。海賊猫に変わるところとか見事。
CDだとSzínházi Macska(劇場猫)としか書いてないんだけど、キャスト表だとどれにあたるのだ???TUS???
キャッツって、Serbi以外知ってる人がいないからいろいろとわからん。。。結局、いろんなところでSerbiの観察をしてしまった。前回はキャスト全員分からなかったから全体を見てた感じだけど、一人だけわかるとかになるとついその人を観察してしまう。いいのか悪いのか。。。そういえば、長老猫はEgyházi Gézaさんのこともあるらしい。Gézaさんが猫化してたりしたら私、もう笑い死にしそうだわ。。。役者になれてくると楽しみ方が変わってくるなあ。
一度日本でも見てみたいなあ・・・。
マダーチ劇場の演出って独特だけど、オペレッタ劇場みたいな「ハンガリー臭さ」がないと思った。『オペラ座の怪人』なんかも、世界で唯一独自演出を許されているとのことだが、個性的だけど、民族的ではないのがよい。いや、私はオペレッタ劇場のハンガリー臭さや民族舞踊要素をふんだんに取り入れたのも大好きだけど、アンドリュー・ロイド・ウェーバーはやっぱりマダーチでよかったと思う。

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- [2012/01/05 20:46]
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ジーザス・クライスト=スーパースター(ミレニアム版)について語ってみる(完)
「スーパースター」の続きです。
この「スーパースター」は何かが変だ。
この時のユダは死んでいて「語り手」になっているはずなので、舞台上の人物であるイエスや彼を取り巻く状況からは超越している筈だ。なのに、どういうわけか、イエスはユダに何かを必死で訴えかけているし、ユダもそれを聞こうとしている。というか、会話をしているのだな。ただ、イエスの言っていることがユダは理解してきれていない、という感じだ。
このあたりで、やはりユダは死んでいないのではないか、と思った。「スーパースター」というおなじみの場面に見せかけて、実は違うのではないか、と。ある意味JCSのパロディ。
もう一つ、思ったことがある。これは他のバージョンでも少し引っかかっていたことだ。
ヨハネによる福音書の13章に、イエスが弟子達の足を洗うという場面がある。ちょうど最後の晩餐のあたりだ。ペテロはこの行為の意味が分からず、イエスに問うと、イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる」と言っている。
これがずっと頭にあってJCSの「ゲツセマネ」を聴いていると結構違和感があったのだ。「そのわけを今すぐ知りたい」と何度も神に問いかけているのだ。ということは、JCSのイエスはヨハネによる福音書のペテロと同じように、わけがわかっていないし、今すぐにそれを知りたいと思っている「人」なのだ。
そのことは、もう一カ所でも感じた。これは2000年版の演出のみのことになるが、ピラトが「真理とは何だ?」とといかけたとき、はっとしたようにピラトの手を取った。もしかしたらイエスの「真理」を求める姿勢と、ピラトの「真理」を求める姿勢が同じであることに気づいてしまったのではないだろうか。そして、それではいけないのだと。神の真理は今の私にはわからない、だがそれを受け入れなければならない、そう思ったのではないか。
そう考えると、「スーパースター」でユダに訴えていることもそういうことなのではないかと思う。「今はわかるまい、だが後で分かるようになる」そして多分・・・「わからないからと、離れるな、側にいてくれ」と。
そんなイエスが理解できずにユダは背を向けるが、イエスの手に釘が打ち込まれた瞬間、ユダ自身が激痛を感じる。このような演出もはじめてだ。ユダは、苦しみから逃れて「語り手」となり、観客と一体化することが許されないのだ。
そして、ユダはゴルゴタの丘に立つ。
そう、「自殺」の前に着ていた服そのまま。「スーパースター」なんてなかったかのようだ。どうして死ななかったのかはよくわからない。「20世紀のスーパースター」のまま華々しく去るのではなく、「イエスを引き渡したもの」として惨めな姿でゴルゴタの丘に立つ。
この場面で印象的なのは、ローマの兵士達がおらず、弟子達とマグダラのマリアしかいないことだ。ちなみにイエスは母マリアを捜しているが、彼女は来ていない。「私に母はどこにいるのですか?」という台詞が入る演出と入らない演出があるが・・・この台詞が入っていて、母の姿がない、というのはとても悲しいな。やはり、人間、特に家族に恵まれなかったという点を強調したいのかもしれない。その代わり、弟子達は全員揃っている。勿論ユダも。ユダは十字架に一番近いところに立ってイエスを見ている。
苦しみぬいた末にイエスが死ぬと、これまた弟子達みんなで十字架から降ろす。これも、何か愛があっていいな、と思った場面だ。
最後の曲は「ヨハネによる福音書19章41節」というタイトルがついている。こういう文章だ。
イエスが十字架につけられたところには園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
曲は「ゲツセマネ」のスローバージョン。歌詞はない。
この状況では「復活」ということに関しては何とも言えない。
イエスの亡骸を地面に降ろした後、弟子達は一人一人と去って行き、ユダとマリアだけが残る。え?降ろすだけで放置!?と思ったけど、映画として表現したいことがあるのだからしょうがない(笑)
マリアとユダはお互いのことはまるでいないかのように振る舞っている。
マリアは始め泣いていたが、ふと、何かを思ったようで空を見上げ、その表情に希望が見える。イエスの復活に立ち会った最初の人物がマリアであることを考えると、このとき、既に復活か、それに類する何かを思い描き、未来への希望を抱き始めたのではないかと思う。やはり、彼女は神の子としてのイエスを愛し、信じ、その意志を引き継ごうとしている。
しかし、ユダは違う。
彼の目はイエスの亡骸から離れない。マリアにしてもペテロにしても「あなたのメッセージは受けとった」と言っていたが、ユダが愛したのはイエスのメッセージではなく、イエスその人だったのだろう。だから、「スーパースター」で「何故、どうして、あなたは誰?」と問うことをやめ、わからないまま、ゴルゴタまで一緒に歩いたのだろう。最後に苦しみの終わったイエスの端正な顔と、泥で汚れたユダの靴が映し出される。私はこの場面が何よりも美しいと思う。ユダの表情は見えない。しかし、最後までイエスに寄り添った。I don't know how to love himと言っていたユダだが、「わからなくてもいい、ただ寄り添うこと」これが、彼なりの答えとなったのではないか。
だから、顔は見えないけれど、きっとユダも安らかな表情をしているのではないかと思う。
長くなりましたが、以上で完結です。
おつきあい頂きありがとうございました。
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この「スーパースター」は何かが変だ。
この時のユダは死んでいて「語り手」になっているはずなので、舞台上の人物であるイエスや彼を取り巻く状況からは超越している筈だ。なのに、どういうわけか、イエスはユダに何かを必死で訴えかけているし、ユダもそれを聞こうとしている。というか、会話をしているのだな。ただ、イエスの言っていることがユダは理解してきれていない、という感じだ。
このあたりで、やはりユダは死んでいないのではないか、と思った。「スーパースター」というおなじみの場面に見せかけて、実は違うのではないか、と。ある意味JCSのパロディ。
もう一つ、思ったことがある。これは他のバージョンでも少し引っかかっていたことだ。
ヨハネによる福音書の13章に、イエスが弟子達の足を洗うという場面がある。ちょうど最後の晩餐のあたりだ。ペテロはこの行為の意味が分からず、イエスに問うと、イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる」と言っている。
これがずっと頭にあってJCSの「ゲツセマネ」を聴いていると結構違和感があったのだ。「そのわけを今すぐ知りたい」と何度も神に問いかけているのだ。ということは、JCSのイエスはヨハネによる福音書のペテロと同じように、わけがわかっていないし、今すぐにそれを知りたいと思っている「人」なのだ。
そのことは、もう一カ所でも感じた。これは2000年版の演出のみのことになるが、ピラトが「真理とは何だ?」とといかけたとき、はっとしたようにピラトの手を取った。もしかしたらイエスの「真理」を求める姿勢と、ピラトの「真理」を求める姿勢が同じであることに気づいてしまったのではないだろうか。そして、それではいけないのだと。神の真理は今の私にはわからない、だがそれを受け入れなければならない、そう思ったのではないか。
そう考えると、「スーパースター」でユダに訴えていることもそういうことなのではないかと思う。「今はわかるまい、だが後で分かるようになる」そして多分・・・「わからないからと、離れるな、側にいてくれ」と。
そんなイエスが理解できずにユダは背を向けるが、イエスの手に釘が打ち込まれた瞬間、ユダ自身が激痛を感じる。このような演出もはじめてだ。ユダは、苦しみから逃れて「語り手」となり、観客と一体化することが許されないのだ。
そして、ユダはゴルゴタの丘に立つ。
そう、「自殺」の前に着ていた服そのまま。「スーパースター」なんてなかったかのようだ。どうして死ななかったのかはよくわからない。「20世紀のスーパースター」のまま華々しく去るのではなく、「イエスを引き渡したもの」として惨めな姿でゴルゴタの丘に立つ。
この場面で印象的なのは、ローマの兵士達がおらず、弟子達とマグダラのマリアしかいないことだ。ちなみにイエスは母マリアを捜しているが、彼女は来ていない。「私に母はどこにいるのですか?」という台詞が入る演出と入らない演出があるが・・・この台詞が入っていて、母の姿がない、というのはとても悲しいな。やはり、人間、特に家族に恵まれなかったという点を強調したいのかもしれない。その代わり、弟子達は全員揃っている。勿論ユダも。ユダは十字架に一番近いところに立ってイエスを見ている。
苦しみぬいた末にイエスが死ぬと、これまた弟子達みんなで十字架から降ろす。これも、何か愛があっていいな、と思った場面だ。
最後の曲は「ヨハネによる福音書19章41節」というタイトルがついている。こういう文章だ。
イエスが十字架につけられたところには園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
曲は「ゲツセマネ」のスローバージョン。歌詞はない。
この状況では「復活」ということに関しては何とも言えない。
イエスの亡骸を地面に降ろした後、弟子達は一人一人と去って行き、ユダとマリアだけが残る。え?降ろすだけで放置!?と思ったけど、映画として表現したいことがあるのだからしょうがない(笑)
マリアとユダはお互いのことはまるでいないかのように振る舞っている。
マリアは始め泣いていたが、ふと、何かを思ったようで空を見上げ、その表情に希望が見える。イエスの復活に立ち会った最初の人物がマリアであることを考えると、このとき、既に復活か、それに類する何かを思い描き、未来への希望を抱き始めたのではないかと思う。やはり、彼女は神の子としてのイエスを愛し、信じ、その意志を引き継ごうとしている。
しかし、ユダは違う。
彼の目はイエスの亡骸から離れない。マリアにしてもペテロにしても「あなたのメッセージは受けとった」と言っていたが、ユダが愛したのはイエスのメッセージではなく、イエスその人だったのだろう。だから、「スーパースター」で「何故、どうして、あなたは誰?」と問うことをやめ、わからないまま、ゴルゴタまで一緒に歩いたのだろう。最後に苦しみの終わったイエスの端正な顔と、泥で汚れたユダの靴が映し出される。私はこの場面が何よりも美しいと思う。ユダの表情は見えない。しかし、最後までイエスに寄り添った。I don't know how to love himと言っていたユダだが、「わからなくてもいい、ただ寄り添うこと」これが、彼なりの答えとなったのではないか。
だから、顔は見えないけれど、きっとユダも安らかな表情をしているのではないかと思う。
長くなりましたが、以上で完結です。
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- [2011/12/24 09:56]
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ジーザス・クライスト=スーパースター(ミレニアム版)について語ってみる(13)
さて、ついに山場である「スーパースター」。このロックオペラのメインテーマというべき曲です。
これは、十字架を負い、ゴルゴタへ向かうイエスを背景に歌うユダ+コーラスの曲。
ユダは既に自殺しているので、時空から解放された「語り手」となって、観客と一体化してイエスに問いかける。
「いつもお前のことがわからなかった。何でそんな手に負えないことをした?」これは、最後の晩餐で悲痛な叫びとして歌っていたものと同じ歌詞・同じ旋律であるが、すべてから解放されたユダは明るく歌う。
「何でこんな遅れた時代と変な場所を選んだんだ?現代なら世界を動かせたかも知れないのに」
「紀元前4年のイスラエルじゃマスコミもないしな」
というユダはマスコミを引き連れ、彼自身が「スーパースター」という出で立ちである。確か、初期の演出ではこの時のユダはエルビス・プレスリーをイメージした格好だったらしい。
「気を悪くしないでくれよ、ただ知りたいだけなんだ」
そして女性コーラス。
「ジーザス・クライスト スーパースター あなたは誰?あなたは何を犠牲にしたの?あなたは聖書で言われているような人なの?」
そして再びユダ。
「あんたのお友達についてどう思うか聞かせてくれ。自分以外で一番偉いのは誰だと思う?ブッダはあんたと同じくらいか?ムハンマドが山を動かしたってのは本当か?それともただの宣伝か?」
キリスト教を相対化したこういう問いも20世紀らしい。
まあ、そんな感じの問いが続く。
この時のユダは現代人が聞きたくてたまらないことをざっくりと聞いている。イエスに「スーパースター」と呼びかけつつ、どう見てもユダがスーパースターだ。
ユダは、ある意味現代人にとって共感と共鳴をもって復権を遂げた人であると思う。この映画の後には2006年には『ユダの福音書』がインターネット上で話題になって書籍化もした。
今年はレディ・ガガの”JUDAS"がヒットしたことも記憶に新しいだろう。
JCSに戻ろう。新約・グノーシスの研究者である荒井献氏が73年版の映画について、次のように評している。
ユダには、最後までイエスのことがわからない。イエスが自分を愛してくれているのか、自分がイエスをどう愛したらよいか、わからない。自分がどうしてイエスを殺す手引きをしたのかさえわからない。この「人間」を求めても「わからない」という寂寥、孤独感が70年安保の後を生きる若者に共感をもって受け入れられたのかもしれない。いずれにしても、ここでもユダは「時代の子」として復権されている。
この見方は、73年版について、すごくよく共感できた。本当に、孤独感がたまらなかった。「スーパースター」は明るく華やかな曲なのに、「わからないわからないわからない」「おしえてくれおしえてくれおしえてくれ」の連呼。しかし、イエスには届かない。とても悲しい歌だ。ユダは、現代の孤独感を代表するスーパースターだった。
しかし、2000年版では違う印象を受けた。前半は、マスコミを引き連れたスーパースターだったんだけど、ね。
まだ続きます。クリスマスまでには何とか終わらせるよ!(笑)

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これは、十字架を負い、ゴルゴタへ向かうイエスを背景に歌うユダ+コーラスの曲。
ユダは既に自殺しているので、時空から解放された「語り手」となって、観客と一体化してイエスに問いかける。
「いつもお前のことがわからなかった。何でそんな手に負えないことをした?」これは、最後の晩餐で悲痛な叫びとして歌っていたものと同じ歌詞・同じ旋律であるが、すべてから解放されたユダは明るく歌う。
「何でこんな遅れた時代と変な場所を選んだんだ?現代なら世界を動かせたかも知れないのに」
「紀元前4年のイスラエルじゃマスコミもないしな」
というユダはマスコミを引き連れ、彼自身が「スーパースター」という出で立ちである。確か、初期の演出ではこの時のユダはエルビス・プレスリーをイメージした格好だったらしい。
「気を悪くしないでくれよ、ただ知りたいだけなんだ」
そして女性コーラス。
「ジーザス・クライスト スーパースター あなたは誰?あなたは何を犠牲にしたの?あなたは聖書で言われているような人なの?」
そして再びユダ。
「あんたのお友達についてどう思うか聞かせてくれ。自分以外で一番偉いのは誰だと思う?ブッダはあんたと同じくらいか?ムハンマドが山を動かしたってのは本当か?それともただの宣伝か?」
キリスト教を相対化したこういう問いも20世紀らしい。
まあ、そんな感じの問いが続く。
この時のユダは現代人が聞きたくてたまらないことをざっくりと聞いている。イエスに「スーパースター」と呼びかけつつ、どう見てもユダがスーパースターだ。
ユダは、ある意味現代人にとって共感と共鳴をもって復権を遂げた人であると思う。この映画の後には2006年には『ユダの福音書』がインターネット上で話題になって書籍化もした。
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JCSに戻ろう。新約・グノーシスの研究者である荒井献氏が73年版の映画について、次のように評している。
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ユダには、最後までイエスのことがわからない。イエスが自分を愛してくれているのか、自分がイエスをどう愛したらよいか、わからない。自分がどうしてイエスを殺す手引きをしたのかさえわからない。この「人間」を求めても「わからない」という寂寥、孤独感が70年安保の後を生きる若者に共感をもって受け入れられたのかもしれない。いずれにしても、ここでもユダは「時代の子」として復権されている。
この見方は、73年版について、すごくよく共感できた。本当に、孤独感がたまらなかった。「スーパースター」は明るく華やかな曲なのに、「わからないわからないわからない」「おしえてくれおしえてくれおしえてくれ」の連呼。しかし、イエスには届かない。とても悲しい歌だ。ユダは、現代の孤独感を代表するスーパースターだった。
しかし、2000年版では違う印象を受けた。前半は、マスコミを引き連れたスーパースターだったんだけど、ね。
まだ続きます。クリスマスまでには何とか終わらせるよ!(笑)

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- [2011/12/23 09:28]
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ジーザス・クライスト=スーパースター(ミレニアム版)について語ってみる(12)
さて、ピラトの裁判の場面です。
この演出を見ていると、様々なところで人間の人間に対する強い愛情・執着というものを感じる。プラトニックな恋愛感情、というのに近いかも知れない。他の演出を見ていても、ユダとマリアがイエスにそうした感情を持っているのは感じる。しかし、この作品だと・・・
ピラト→イエス→ユダ
というのを感じるんだな。
何か明らかにユダのイエスに対する思いよりも、イエスのユダに対する思いの方が何か激しい・・・というか必死な感じ。で、ピラトは何なのかというのがこの話の本題。
最初に尋問した時から何やら気になっていたよう。
で、ヘロデのところからまた連れたイエスと再び対面。
どうも気になって仕方がないよう。いろいろ質問をする。
イエス「私は真実を求めただけ。そしてここに連れてこられた」
ピラト「しかし真実とは何だ?真実とは不変のものではないのか?我々の真実とお前の真実は同じものではないのか?」
ここで、イエスがはっとしたようにピラトを見て、その手を握りしめる。
おお!?
この人がユダ以外に心を開こうとしているのを初めて見たぞ。
が、ここで群衆達が騒ぎ出す。
「奴を殺せ、十字架にかけろ!」
激怒するピラト。つい先ほどまでイエスをメシアと呼んでいた群衆が。ローマを敵と呼んでいた群衆が。あまりにも節操がない。どの演出でもピラトはイエスを助けようとする。こうした群衆への怒りが主な理由のように感じる演出が多いのだ。しかし、このピラトは、イエスのために怒っているし、イエスを助けたいと思っている。
何故惹かれるのか、ここではまだわかっていない。
が、「語れ、Jesus Christ」と言って顔を見た時、例の、「ピラトの夢」の旋律が流れる。そうか、あの夢の男!!!愕然とするピラト。
「こいつは狂人だ!死刑にする必要なんかない、ただの哀れな男だ!!!こいつが何をした?裁きには根拠が必要だろう!?」
と必死で訴える。
しかし、群衆はあくまで死刑を求める。ピラトは何度も何度もイエスの無実を訴える。無罪放免というわけにはどうしてもいかない。
「では、鞭打ちにしよう、それで終わりだ」
これで39回の鞭打ちが行われるのだが、この場面を見ていて、ピラトとユダが被った。
どうしてかわからないが、イエスに惹かれる。
どんどん窮地に追い込まれていくイエスを何とか助けたいと思う。
しかし、それができない。
だから、「死なない程度の刑」によって彼を救おうとする。
鞭打ちのカウントのときのピラトの苦しそうな顔。
早く、否定してくれ。
神ではない、王ではないと。そうすれば救える。
・・・最後の晩餐でユダが「もっとうまく計画立ててやればうまくいったのに、どうしてこうなってしまったんだ」と泣いていたのを思い出す。
40回打つと死んでしまうと言われているので、39回で止めて、イエスのもとに駆け寄る。
「何者だ、お前は、慎重に答えろ、でないと死んでしまうぞ」
・・・この聞き方も、「スーパースター」のユダの台詞と通じるところがある。
そして、愛おしげに(本当にびっくりするくらい!)抱き寄せて
「何故言わない?お前の命は私の手の内にあるのだぞ?何故黙っている?」
と泣きそうな声で言う。顔がめっちゃ近い!
イエスは「あなたにはその力はない。神の定めを変えることはできない」と弱々しく答える。
「愚かな!」そう叫びながらもピラトは「どうしたらお前を助けられる・・・?」と懇願するようにイエスに問う。
イエスは黙ったまま微笑み、血まみれの手をピラトの頬に当てる。ピラトはその手を握りしめる。が、群衆はそれを許さない。「十字架にかけろ!それが総督の務めだろう!」引き裂かれるように、ピラトはイエスの手を離す。
あれ・・・?やっぱりデジャヴ。ユダとの別れの場面・・・。
最後にピラトが叫ぶ台詞
Die if you want to you innocent puppet!!!
操り人形。。。そうなんだよね、神には逆らえない、哀れなpuppet。
やはり、ピラトは「もう一人のユダ」なのではないかと思う。
イエスという人間に惹かれてしまい、助けようとする。
ユダは知恵と、誠意と、愛情と、勇気を持って行動したが、駄目だった。
ユダに欠けていたのはなにかというと、権力だ。
では、ユダのもっているものに加え、権力を持つ者がいたなら?
それが、ピラトとして描かれているのだろう。
どういうわけかこの演出のピラトは夢の一目惚れ(?)でイエスを愛し抜いている。
そして権力もある。
しかし、イエスを救うことができない。
それが神の定めだから。
同じ主題の変奏だ。
悲しすぎる。
イエス自身も、ヘロデに対してはアウトオブ眼中だったのに、ピラトには真剣に反応している。それは、彼の中に「ユダ」を感じたからではないだろうか。
さて、次回「スーパースター」。
スーパースターとは誰のことなんでしょうね?

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この演出を見ていると、様々なところで人間の人間に対する強い愛情・執着というものを感じる。プラトニックな恋愛感情、というのに近いかも知れない。他の演出を見ていても、ユダとマリアがイエスにそうした感情を持っているのは感じる。しかし、この作品だと・・・
ピラト→イエス→ユダ
というのを感じるんだな。
何か明らかにユダのイエスに対する思いよりも、イエスのユダに対する思いの方が何か激しい・・・というか必死な感じ。で、ピラトは何なのかというのがこの話の本題。
最初に尋問した時から何やら気になっていたよう。
で、ヘロデのところからまた連れたイエスと再び対面。
どうも気になって仕方がないよう。いろいろ質問をする。
イエス「私は真実を求めただけ。そしてここに連れてこられた」
ピラト「しかし真実とは何だ?真実とは不変のものではないのか?我々の真実とお前の真実は同じものではないのか?」
ここで、イエスがはっとしたようにピラトを見て、その手を握りしめる。
おお!?
この人がユダ以外に心を開こうとしているのを初めて見たぞ。
が、ここで群衆達が騒ぎ出す。
「奴を殺せ、十字架にかけろ!」
激怒するピラト。つい先ほどまでイエスをメシアと呼んでいた群衆が。ローマを敵と呼んでいた群衆が。あまりにも節操がない。どの演出でもピラトはイエスを助けようとする。こうした群衆への怒りが主な理由のように感じる演出が多いのだ。しかし、このピラトは、イエスのために怒っているし、イエスを助けたいと思っている。
何故惹かれるのか、ここではまだわかっていない。
が、「語れ、Jesus Christ」と言って顔を見た時、例の、「ピラトの夢」の旋律が流れる。そうか、あの夢の男!!!愕然とするピラト。
「こいつは狂人だ!死刑にする必要なんかない、ただの哀れな男だ!!!こいつが何をした?裁きには根拠が必要だろう!?」
と必死で訴える。
しかし、群衆はあくまで死刑を求める。ピラトは何度も何度もイエスの無実を訴える。無罪放免というわけにはどうしてもいかない。
「では、鞭打ちにしよう、それで終わりだ」
これで39回の鞭打ちが行われるのだが、この場面を見ていて、ピラトとユダが被った。
どうしてかわからないが、イエスに惹かれる。
どんどん窮地に追い込まれていくイエスを何とか助けたいと思う。
しかし、それができない。
だから、「死なない程度の刑」によって彼を救おうとする。
鞭打ちのカウントのときのピラトの苦しそうな顔。
早く、否定してくれ。
神ではない、王ではないと。そうすれば救える。
・・・最後の晩餐でユダが「もっとうまく計画立ててやればうまくいったのに、どうしてこうなってしまったんだ」と泣いていたのを思い出す。
40回打つと死んでしまうと言われているので、39回で止めて、イエスのもとに駆け寄る。
「何者だ、お前は、慎重に答えろ、でないと死んでしまうぞ」
・・・この聞き方も、「スーパースター」のユダの台詞と通じるところがある。
そして、愛おしげに(本当にびっくりするくらい!)抱き寄せて
「何故言わない?お前の命は私の手の内にあるのだぞ?何故黙っている?」
と泣きそうな声で言う。顔がめっちゃ近い!
イエスは「あなたにはその力はない。神の定めを変えることはできない」と弱々しく答える。
「愚かな!」そう叫びながらもピラトは「どうしたらお前を助けられる・・・?」と懇願するようにイエスに問う。
イエスは黙ったまま微笑み、血まみれの手をピラトの頬に当てる。ピラトはその手を握りしめる。が、群衆はそれを許さない。「十字架にかけろ!それが総督の務めだろう!」引き裂かれるように、ピラトはイエスの手を離す。
あれ・・・?やっぱりデジャヴ。ユダとの別れの場面・・・。
最後にピラトが叫ぶ台詞
Die if you want to you innocent puppet!!!
操り人形。。。そうなんだよね、神には逆らえない、哀れなpuppet。
やはり、ピラトは「もう一人のユダ」なのではないかと思う。
イエスという人間に惹かれてしまい、助けようとする。
ユダは知恵と、誠意と、愛情と、勇気を持って行動したが、駄目だった。
ユダに欠けていたのはなにかというと、権力だ。
では、ユダのもっているものに加え、権力を持つ者がいたなら?
それが、ピラトとして描かれているのだろう。
どういうわけかこの演出のピラトは夢の一目惚れ(?)でイエスを愛し抜いている。
そして権力もある。
しかし、イエスを救うことができない。
それが神の定めだから。
同じ主題の変奏だ。
悲しすぎる。
イエス自身も、ヘロデに対してはアウトオブ眼中だったのに、ピラトには真剣に反応している。それは、彼の中に「ユダ」を感じたからではないだろうか。
さて、次回「スーパースター」。
スーパースターとは誰のことなんでしょうね?

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- [2011/12/20 22:19]
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ジーザス・クライスト=スーパースター(ミレニアム版)について語ってみる(11)
さて、「ユダの自殺」のシーンまで来ました。長い!!!
拷問を受けるイエス(他の演出に比べ、かなり残酷)を間近で見ていたユダは耐え難くなってカヤパ・アンナスに彼を助けてやってくれと懇願する。そもそも、最悪の事態を避けるための「裏切り」だったのに・・・。
どうも見ている感じ黒幕と思われるアンナスは「今更ぐだぐだ言うな」と冷たく却下。見た目がネオナチっぽいね、この人。「お前はいいことをしたんだよ、イスラエルを救ったんだよ」というカヤパが優しい人に見えてしまった(笑)
外に引きずり出されて泣き崩れるユダ。
「Christ!あなたには俺の声はもう聞こえないだろう。でも俺は何でもしよう、国も売ろう」
今までユダがChristと呼ぶ時って、皮肉だったんだけど・・・ここではどういう気持ちなのだろう?
結局、人としてのJesusを救おうとした自分が、がChristとして祭り上げてしまった、そして罪なき人の血を浴びることになってしまった・・・ということなのかな?
その後、マグダラのマリアと同じメロディーで
「I don't know how to love him
I don't why he moves me
He's a man - he's just the same
As anyone I know」
と続ける。やっぱり、Christなんかじゃない、ユダにとっては「ただの男」のJesusなのだ。
そして、彼は死んでも自分を受け入れてくれるだろうか、愛してくれるだろうか、と恐れる。
大丈夫だから、そこは大丈夫だから!!!!と画面に向かって叫びそうになった。
で、こっからが怖い。
この映画は舞台をイメージした設定になっていて、重要な大道具として舞台中央のエレベーターというものがある。これは、ドアのないオープンなエレベーターで、一番始めの場面で、イエスがこれに乗って降りてくる。どうやら「神」が絡んだ装置のようだ。
それで、だ。
苦しむユダのところにこのエレベーターが静かに降りてくるのだ。ユダはふらふらとそれに乗っていく。しかも、ご丁寧に首つり用のロープまで提供される。ぞっとする場面だ。ユダは叫ぶ。
「神よ!あなたは俺を利用した!何故俺を選んだのだ!このあなたの忌まわしい犯罪に!!!」
神から逃げるように首をつった73年版のユダとは対照的に、天を睨み付け、怒りを込めて神を罵る。何か・・ゲツセマネのイエスと似ている。二人とも、何故神にこのような扱いを受けなければいけないのか、納得していない。
ユダは「罪なき人の血」と言っているが、JCSのユダは少なくともヨハネによる福音書に出てくるような悪人ではない。誠実で聡明で、愛のある人だ。そんなユダが何故こんな目にあわなければならないのか。何で神ってこんな理不尽なんだ、と思った。
ふと、旧約聖書の理不尽な話の数々が浮かんだ。
アブラハムにイサクを生け贄として捧げろと言った話とか、義人であるヨブを理不尽な程ひどい目に遭わせた話とか。でも、アブラハムもヨブも結局は神によって許され、救われている。私は、ミレニアム版のユダは実は、こうした旧約の試練に遭わさた人々の系譜に連なるのではないか、と考えた。
聖書ではそうではないと思うし、JCSにおいても普通は違う。
何故なら、JCSの通常の演出では首つりだったりピストル自殺であったり転落であったり方法は様々であるが、この「ユダの自殺」の曲をもって死んでいる。
しかし、ミレニアム版では、死んでいるのか分からない終わり方なのだ。
エレベーターが上までのぼりつめたとき、何やら衝撃音がして、何かが落ちてくる。騒ぎをきいて駆けつけた人は落ちてきた人を見ようとする。が、そこにはユダは居なくて、拷問の末につるし上げられたイエスが現れる。
歴史的に見て、ユダが死んだのはもう少し後ということも考えられるので、別に死んでなくても不思議ではないのだが、JCSの世界でここでユダが死んでないとなると、かなり革新的な演出ということになる。
↓福音書や外典、『ユダの福音書』について学術的かつ読みやすいのがこちら。
生きてるか死んでるか分からないユダはおいておいて、次回は、血まみれのイエスと、イエスに一目惚れしてしまったらしいピラトについて語ります。

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拷問を受けるイエス(他の演出に比べ、かなり残酷)を間近で見ていたユダは耐え難くなってカヤパ・アンナスに彼を助けてやってくれと懇願する。そもそも、最悪の事態を避けるための「裏切り」だったのに・・・。
どうも見ている感じ黒幕と思われるアンナスは「今更ぐだぐだ言うな」と冷たく却下。見た目がネオナチっぽいね、この人。「お前はいいことをしたんだよ、イスラエルを救ったんだよ」というカヤパが優しい人に見えてしまった(笑)
外に引きずり出されて泣き崩れるユダ。
「Christ!あなたには俺の声はもう聞こえないだろう。でも俺は何でもしよう、国も売ろう」
今までユダがChristと呼ぶ時って、皮肉だったんだけど・・・ここではどういう気持ちなのだろう?
結局、人としてのJesusを救おうとした自分が、がChristとして祭り上げてしまった、そして罪なき人の血を浴びることになってしまった・・・ということなのかな?
その後、マグダラのマリアと同じメロディーで
「I don't know how to love him
I don't why he moves me
He's a man - he's just the same
As anyone I know」
と続ける。やっぱり、Christなんかじゃない、ユダにとっては「ただの男」のJesusなのだ。
そして、彼は死んでも自分を受け入れてくれるだろうか、愛してくれるだろうか、と恐れる。
大丈夫だから、そこは大丈夫だから!!!!と画面に向かって叫びそうになった。
で、こっからが怖い。
この映画は舞台をイメージした設定になっていて、重要な大道具として舞台中央のエレベーターというものがある。これは、ドアのないオープンなエレベーターで、一番始めの場面で、イエスがこれに乗って降りてくる。どうやら「神」が絡んだ装置のようだ。
それで、だ。
苦しむユダのところにこのエレベーターが静かに降りてくるのだ。ユダはふらふらとそれに乗っていく。しかも、ご丁寧に首つり用のロープまで提供される。ぞっとする場面だ。ユダは叫ぶ。
「神よ!あなたは俺を利用した!何故俺を選んだのだ!このあなたの忌まわしい犯罪に!!!」
神から逃げるように首をつった73年版のユダとは対照的に、天を睨み付け、怒りを込めて神を罵る。何か・・ゲツセマネのイエスと似ている。二人とも、何故神にこのような扱いを受けなければいけないのか、納得していない。
ユダは「罪なき人の血」と言っているが、JCSのユダは少なくともヨハネによる福音書に出てくるような悪人ではない。誠実で聡明で、愛のある人だ。そんなユダが何故こんな目にあわなければならないのか。何で神ってこんな理不尽なんだ、と思った。
ふと、旧約聖書の理不尽な話の数々が浮かんだ。
アブラハムにイサクを生け贄として捧げろと言った話とか、義人であるヨブを理不尽な程ひどい目に遭わせた話とか。でも、アブラハムもヨブも結局は神によって許され、救われている。私は、ミレニアム版のユダは実は、こうした旧約の試練に遭わさた人々の系譜に連なるのではないか、と考えた。
聖書ではそうではないと思うし、JCSにおいても普通は違う。
何故なら、JCSの通常の演出では首つりだったりピストル自殺であったり転落であったり方法は様々であるが、この「ユダの自殺」の曲をもって死んでいる。
しかし、ミレニアム版では、死んでいるのか分からない終わり方なのだ。
エレベーターが上までのぼりつめたとき、何やら衝撃音がして、何かが落ちてくる。騒ぎをきいて駆けつけた人は落ちてきた人を見ようとする。が、そこにはユダは居なくて、拷問の末につるし上げられたイエスが現れる。
歴史的に見て、ユダが死んだのはもう少し後ということも考えられるので、別に死んでなくても不思議ではないのだが、JCSの世界でここでユダが死んでないとなると、かなり革新的な演出ということになる。
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生きてるか死んでるか分からないユダはおいておいて、次回は、血まみれのイエスと、イエスに一目惚れしてしまったらしいピラトについて語ります。

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- [2011/12/19 21:02]
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ジーザス・クライスト=スーパースター(ミレニアム版)について語ってみる(10)
ついに二桁に突入(笑)
「ペテロの否認」の場面。
あの不憫系ペテロの一番の見せ場・・・というのもまた何か不憫だな(苦笑)
「あなたどこかで見た顔ね、あの男と一緒にいたでしょう?」
「違う、人違いだ」
「いや、俺も見たぞ一緒にいただろう」
「いや、彼と一緒にいたことなんかない」
「でも確かにあんただ」
「違う!彼なんか知らない!!!」
・・・となるわけです。
劇団四季だと「知るもんか、あんな奴」と叫び、その瞬間イエスが振り返るいう演出があった。あれは本当切なかった。イエスとペテロの絆が深かったことを感じたんだが・・・。
この映画だと、ちょうどイエスはユダの心配して気遣ってる場面なんですよね〜。
まあ、ユダとの絆を強調するためにペテロが薄くなるのは仕方ないのか???
うぬぬ不憫・・・!
聖書だと、3回否定した後泣き崩れたというのもあったが、そうでもない。
まあ、泣き崩れはするんだけど、マグダラのマリアに「あなた何言ったかわかってんの!?」と責められ、「ああ言わないと自分も捕まってたんだ」とマリアに縋りつくんだな。
何というか、ペテロがイエスに対して一対一で向き合うシーンがないのだな。四季の演出だと、あの悲しい目を向けられたペテロは、イエスに向き合うしかなかったのだろう。人としてのイエスとペテロ。でも、この演出だと、ちょっと違うように思う。
もうちょっと先まで行こう。
この後イエスはピラトのもとに連れて行かれる。
ピラトは一度夢の中でイエスに会っており、何か強烈なものを感じたのだが、このときはまだ思い出さない、
このような状況で冷静そのもののイエスに感心するピラト。
うん、私もびっくりした。基本、ユダが絡まないと冷静なのだろうか(笑)
その後、イエスはガリラヤ領主ヘロデのもとで裁きを受けることになる。
この場面がね、最初見た時衝撃だった。
重くて暗い「ロックオペラ」に突如挿入された「ポップミュージカル」。
しかし、この明るさの意義は、舞台で見るときに一番強く感じる。
JCSは1時間40分の緊張感のあるロックオケラだ。休憩は普通入れない。
ヘロデの場面までで1時間10分ほど。
正直・・・疲れてくるのだ。
首とか肩とか腰とか(苦笑)。
でも、「最後の晩餐」や「ゲツセマネ」などで姿勢を変える勇気はない、私は。
が、ここで「ポップミュージカル」が挿入されることで、絶妙なタイミングの休憩となるのだ。
JCSのヘロデは調子者、自信家、気まぐれ、そして愛嬌がある、と描かれている。
それぞれのバージョンで様々な工夫がされていて、これを見るのも大きな楽しみの一つだ。
この場面があるからこそ、この後に続く「ユダの自殺」や「十字架」など重いシーンに改めて集中できるのだ。
この場面がないと、悲劇に慣れてしまうのだ。
この演出のヘロデはカジノ王
そうくるか(笑)
まあ・・・正直言うと、73年版のヘロデの方が強烈だったなーと思ったりする。
あのヘロデは・・・是非とも見るべき!
で、ヘロデに絡まれてるイエスですが・・・・
完全に別のことを考えてる顔でした(笑)
グレン・カーターの演じるイエスのスルーテクはすごいな(笑)
さて、この後再びペテロとマリア。
「もう一度初めからやりなおせたら」という歌なんだけど、
ふと、ペテロの発言に違和感を感じた。
「あなたのメッセージは確かに伝わった」と言うのだ。
そう、それでいいのだけど・・・だけど・・・・
ここで、映像として拷問を受けるイエスとそこから目をそらさずに見つめるユダの姿が映し出される。
ユダにとっては、イエスは「メッセージ」ではなく、目の前で苦しむ生身の人間なのだ。ユダまで服がぼろぼろになっているのは、それを見る苦しみのあまり自分でかきむしったのだろう。そうやって、イエスの苦しみを見ている。しかし、ペテロもマリアもそこからは離れたところにおり、「観念としてのイエス」を見つめている。
観念として、思想として見るから、「信者」なのではないか、と思うのだ。
ペテロやマリア、シモンなどはその観念を共有する仲間として存在している。
だから、一対一でイエスの苦しみに向き合うことをしなくて済んでいるのだ。
イエスもペテロに対して冷たいが、ペテロもイエスに対してかなり淡々としている。
だから、たとえ顔を憶えてもらえてなくても(笑)大丈夫なのだ。
だがユダは・・・・。
次回、ユダの自殺。

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「ペテロの否認」の場面。
あの不憫系ペテロの一番の見せ場・・・というのもまた何か不憫だな(苦笑)
「あなたどこかで見た顔ね、あの男と一緒にいたでしょう?」
「違う、人違いだ」
「いや、俺も見たぞ一緒にいただろう」
「いや、彼と一緒にいたことなんかない」
「でも確かにあんただ」
「違う!彼なんか知らない!!!」
・・・となるわけです。
劇団四季だと「知るもんか、あんな奴」と叫び、その瞬間イエスが振り返るいう演出があった。あれは本当切なかった。イエスとペテロの絆が深かったことを感じたんだが・・・。
この映画だと、ちょうどイエスはユダの心配して気遣ってる場面なんですよね〜。
まあ、ユダとの絆を強調するためにペテロが薄くなるのは仕方ないのか???
うぬぬ不憫・・・!
聖書だと、3回否定した後泣き崩れたというのもあったが、そうでもない。
まあ、泣き崩れはするんだけど、マグダラのマリアに「あなた何言ったかわかってんの!?」と責められ、「ああ言わないと自分も捕まってたんだ」とマリアに縋りつくんだな。
何というか、ペテロがイエスに対して一対一で向き合うシーンがないのだな。四季の演出だと、あの悲しい目を向けられたペテロは、イエスに向き合うしかなかったのだろう。人としてのイエスとペテロ。でも、この演出だと、ちょっと違うように思う。
もうちょっと先まで行こう。
この後イエスはピラトのもとに連れて行かれる。
ピラトは一度夢の中でイエスに会っており、何か強烈なものを感じたのだが、このときはまだ思い出さない、
このような状況で冷静そのもののイエスに感心するピラト。
うん、私もびっくりした。基本、ユダが絡まないと冷静なのだろうか(笑)
その後、イエスはガリラヤ領主ヘロデのもとで裁きを受けることになる。
この場面がね、最初見た時衝撃だった。
重くて暗い「ロックオペラ」に突如挿入された「ポップミュージカル」。
しかし、この明るさの意義は、舞台で見るときに一番強く感じる。
JCSは1時間40分の緊張感のあるロックオケラだ。休憩は普通入れない。
ヘロデの場面までで1時間10分ほど。
正直・・・疲れてくるのだ。
首とか肩とか腰とか(苦笑)。
でも、「最後の晩餐」や「ゲツセマネ」などで姿勢を変える勇気はない、私は。
が、ここで「ポップミュージカル」が挿入されることで、絶妙なタイミングの休憩となるのだ。
JCSのヘロデは調子者、自信家、気まぐれ、そして愛嬌がある、と描かれている。
それぞれのバージョンで様々な工夫がされていて、これを見るのも大きな楽しみの一つだ。
この場面があるからこそ、この後に続く「ユダの自殺」や「十字架」など重いシーンに改めて集中できるのだ。
この場面がないと、悲劇に慣れてしまうのだ。
この演出のヘロデはカジノ王

そうくるか(笑)
まあ・・・正直言うと、73年版のヘロデの方が強烈だったなーと思ったりする。
あのヘロデは・・・是非とも見るべき!
で、ヘロデに絡まれてるイエスですが・・・・
完全に別のことを考えてる顔でした(笑)
グレン・カーターの演じるイエスのスルーテクはすごいな(笑)
さて、この後再びペテロとマリア。
「もう一度初めからやりなおせたら」という歌なんだけど、
ふと、ペテロの発言に違和感を感じた。
「あなたのメッセージは確かに伝わった」と言うのだ。
そう、それでいいのだけど・・・だけど・・・・
ここで、映像として拷問を受けるイエスとそこから目をそらさずに見つめるユダの姿が映し出される。
ユダにとっては、イエスは「メッセージ」ではなく、目の前で苦しむ生身の人間なのだ。ユダまで服がぼろぼろになっているのは、それを見る苦しみのあまり自分でかきむしったのだろう。そうやって、イエスの苦しみを見ている。しかし、ペテロもマリアもそこからは離れたところにおり、「観念としてのイエス」を見つめている。
観念として、思想として見るから、「信者」なのではないか、と思うのだ。
ペテロやマリア、シモンなどはその観念を共有する仲間として存在している。
だから、一対一でイエスの苦しみに向き合うことをしなくて済んでいるのだ。
イエスもペテロに対して冷たいが、ペテロもイエスに対してかなり淡々としている。
だから、たとえ顔を憶えてもらえてなくても(笑)大丈夫なのだ。
だがユダは・・・・。
次回、ユダの自殺。

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